歴史ドキュメンタリー

近代城郭の祖 愛知県小牧山城

近代城郭の祖 愛知県小牧山城

 

皆さん、お疲れ様です。

アヒルノヒカリでございます。

今回は歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」です。

 

小牧山城

本日やって来たのは・・・・。

愛知県小牧市にある小牧山城です。

織田信長が築城し清洲城の次に居城にした城ですね。

下調べの結果そこそこ歩く様なので靴を替えて・・・・いざ、入城です。

目の前に綺麗で立派な階段がありますが、地図で見ると大手口は別の場所にある様です。

明らかに階段が順路に見えますが・・・・いや、ワタクシは大手口から入城したいのです!

・・・・。

こ、ここ!?

ここが大手口??

早速失敗臭が漂っています・・・・。(笑)

狭い階段を登って先には戦没者の慰霊碑、どうか安らかに・・・・。

完全に山歩き・・・・トレランシューズを持って来て正解でした。

先程の鳥居の先には愛宕社、祭神は火具土命です。

戦災地、震災地が早く平和になりますように・・・・。

城の守り神でしょうか、火の神を祀って火災防止を願ったとか?

そのまま道なりに登っていくと・・・・。

神社の真横に出ました。

少し戻ると社標がありました、小牧山稲荷神社。

下に伸びる綺麗で広い道・・・・やはりマニアックなコースで登って来てしまった様ですね。(笑)

・・・・ワタクシらしくて良いでしょう、稲荷神社を参拝します。

いつでもどこでも稲荷神社は良いですね。

戦災地、震災地が早く平和になりますように・・・・。

横にある・・・・これは何でしょう?

百度石ではない様ですが、残念ながら読む事が出来ません。

奥にもお社がありますね。

小牧山初里姫竜大神。

つまり龍神が祀られているという事ですね。

戦災地、震災地が早く平和になりますように・・・・。

小さな鏡が祀ってあります。

此処から本道です。(笑)

天守閣が見えて来ました。

この石垣が新しく復元されたとの事です。

今回は天守閣よりもこちらを見に来たのです。

岩壁も利用した石垣になっていたとの事で、発掘結果からの忠実復元だそうです。

この三段の石垣・・・・少なくとも尾張では信長が築城するまで無かった物なのだそうです。

これも小牧山城を10年以上発掘調査した結果、新たに分かったとの事ですよ。

どうやらこの三段の石垣に松明を立ててライトアップしていたそうです。

ライトアップといえば安土城ですが・・・・信長はまだ尾張一国の国主だった時点でやっていた!?

天守閣は一応資料館になっています。

昭和30年に建てられたそうで・・・・これを建ててしまったばかりに当時の天守閣がどんな物がったか分からなくなってしまったのだとか・・・・。

まだ観光優先で史跡を保存するという概念に乏しかった時代だったと記事で読みました。

資料館に入れば天守閣から景色が眺められますが、今回はパスします。

此処からでも充分良い眺めです。

一体当時はどんな天守閣が立っていたのでしょう。

ライトアップする程ですから、きっと凝った造りだったのでしょうねぇ。

こちらは石垣復元中・・・・なのかな?

説明書きはありません。

天守閣北側に来ました。

三段ですねぇ。

石枡遺構、石枡とは水道なのだそうです。

今回初めて知りました。

甘く見ていましたが結構分かりにくい道で・・・・どこに向かっているのかがよく分かりません。

一旦北側の麓、裏手口まで下ります。

此方は空堀跡でしょうか、説明書きはありません。

確信はありませんが・・・・自然に出来る形ではない様に思えます。

麓まで下りまして・・・・地図を確認します。

此処から西自然道→土塁断面展示施設→東自然道、という順に見ていきます。

此処からが西自然道です。

小牧山に入ってずっと感じていたのは・・・・。

なんて緑が深い、綺麗な山なんだろうという事です。

ですがこの自然道の外を見ると・・・・。

もうすぐそこ、山の外周は街なんですよねぇ。

天守閣は失敗だったのだと思います。

ですが、この山は城という史跡があった・・・・そして観光資源だと認識されたからこそ守られたのだと思います。

都市開発に飲み込まれないで・・・・本当に良かった!

おっ!?

この作りは湿地かな?

残念ながら紹介の看板はありませんでしたが、このすぐ横は住宅地です。

本当にギリギリのところで踏みとどまった感があります。

裏手口周辺に戻って来ました。

本日は土曜日、親子連れが沢山います。

虫取り網を持って子供達が走っています。

風通しが良い木陰道・・・・涼しくて気持ちがいいです。

北側は市民の憩いの場になっています。

ロードバイクに乗っていろいろなところを走ると・・・・時々山を削って住宅地等を作っている建設現場に出くわします。

残念な事です。

良い悪いは置いておいて・・・・この国の人口は減少しています。

もう自然を壊してまで新しい住宅地を作る必要はないと思います。

残っている自然にこのように少し手を加えて公園などを作った方が、よっぽど地価が上がるんじゃなかろうか・・・・などと思う訳です。

さて、土塁断面展示施設に着いたのですが・・・・。

本当にバッサリ切って展示しているとは思いませんでした!

ワタクシにはこの層の意味や歴史的価値は分かりませんが、ここ・・・・普通に門のように入り口になっています。

斬新で面白いですね。

この土塁群は北側にしかありません。

信長が此処を築城した時には無かったもので、作った人は・・・・徳川家康!

知ってるよという方も多いでしょうが、後述します。

此処からは東自然道です。

この木・・・・立派ですねぇ。

樹齢は如何程なのでしょう?

沢山の野鳥、虫、そしてトカゲを見ました。

地域住民の皆さんにも好みがあるでしょうから勝手な事を言うのは良くないかもしれませんが、こういう場所が身近にある事は幸せなんじゃないでしょうか。

此処にはシダのアホ毛がありませんねぇ、品種が違うのでしょうか?

戻って来ました。

ワタクシ・・・・目の前にあるこの立派な階段を無視しました、バカだなぁ。(笑)

何だか城より山道の方がメインの記事になってしまいましたね。

ありがとうございました。

ロードバイクで訪れる予定の方、ビンディングシューズでは厳しいですよ。

 

「その時アヒルが動いた」本日のその時です

近代城郭の祖という事で今回は小牧山城をご紹介致しました。

長い間この城は美濃攻略の為の砦の様な城だったと考えられてきました。

しかし10年の発掘の結果・・・・この城はそれまで尾張に無かったタイプの城だった事が分かりました。

三段の石垣を使ったライトアップ、そして大手口から天守閣まではまっすぐ伸びた一本道だったのだとか。

つまりこの城は全く戦闘することを考慮していなかった城だったという事です。

自身の力の象徴であり、家臣も簡単に行き来する事が出来た。

戦う事が考慮していない、つまり他国から攻められる心配がなく治安も良い場所という事です。

ですから住民も安心して城下町に住むことが出来たでしょう。

戦闘用の城郭では無い、政治と経済の為のランドマーク・・・・それがこの小牧山城だったのです。

これはそのまんま安土城・・・・それ故に小牧山城は近代城郭の祖なのです。

家康がこの城に入ったのは小牧長久手の合戦時、信長が築城したこの城を本陣にする事で織田信雄の正当性をアピールする為でした。

ですがこの小牧山城は全く戦争が出来ない城だった・・・・それで北側に土塁を作りまくったという訳です。

・・・・ワタクシは完全に誤解していました。

安土城は天下取りに王手をかけた信長が、その過程で成長した結果設計した城だと思っていましたが・・・・そうでは無かった!!

小牧山城が築城されたのは1563年、信長が尾張統一を果たした頃です。

此処が驚きです!

尾張一国を統一した程度の・・・・まだまだ小国の国主だった信長がこんな思想を既に持っていたという事です。

秀吉の大阪城と家康の江戸城、どちらも権力の象徴であり政治の中枢を担う近代城郭でした。

ですが両城とも堅固な防衛力を誇る城郭でもありました。

信長だけが小牧山城や安土城の様な城を建てたのです。

信長はこんな先進的な思想をどうやって持ったのでしょうか?

尾張という地域や織田家という家にそんな特別な要素があったのでしょうか?

信長は日本を統一した後どんな国を作ろうと考えていたのでしょう?

信長が夢見た日本とはどんな姿だったのでしょう?

城郭の建築思想だけ見ても、秀吉や家康とは全く違う国造りを目指していた様に思えてなりません。

もし信長が日本を統一したのなら、この国は今とは大きく違う歴史を歩んでのでしょうか?

気になって仕方がありません。

長らく信じられてきた信長像が、実は豊臣政権や徳川幕府が己の正当性をアピールする為にねじ曲げた物だったという事がだんだん知られる様になって来ました。

これからも人間「織田信長」から目が離せませんね。

 

皆さんの好きな戦国大名は誰ですか?

 

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