関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その5
皆さん、お疲れ様です。
アヒルノヒカリでございます。
関ヶ原の合戦を追いかけてきた歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」、クライマックスです。
島左近陣跡
遂に見えてきました、石田三成陣跡!
その石田三成陣跡の麓には忠臣島左近の陣跡があります。
石田軍の武将である左近の陣が別になっているあたりに彼の人気が窺い知れますね。
ワタクシも三成が再評価される前から好きな武将でした。
「治部少(三成)に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」
その1の本多忠勝陣跡で家康バージョンを紹介しましたが、この時代に人をバカにする時はこのリズムと決まっていたのでしょうか?(笑)
島津義弘の夜襲案に小西行長と共にこの島左近も賛成したそうです。
夜襲はものすごく有効な戦法のような印象がありますが、実は紹介されていないだけで失敗例の方が遥かに多い、非常に難度の高い戦法なのです。
参加将兵が夜戦に慣れていて戦場の地形を熟知している事、そして月明かりでも見える目印、山などのランドマークがある事等、成功に欠かせない条件があります。
「天下を決める大戦に夜襲は相応しくない」・・・・プライドの高い三成がいかにも言いそうな事ですが、夜襲に対する三成の武将としての自信の無さが夜襲却下の理由だとワタクシはみています。
三成はもっと西軍所属の武将、特に戦国時代や朝鮮の役を戦って戦慣れした野戦将軍たちを信用すべきでした。
自他共に認める優秀な自信家、嫌われ者で友人が少なかった三成は他人の力を信じる力が弱かったのかもしれませんね。
同僚を一切頼らず一人で何でもやろうとして孤立している人、職場にいませんか?(笑)
この辺も自前の兵を持たずに外様大名を信用して合戦に臨んだ徳川家康と比較することが出来るのではないでしょうか?
石田三成陣跡
歴史は勝者がつくるもの、敗者は不当に貶められている事があります。
ワタクシ、敗者の真の姿を追いかけるのがとても好きです。
この石田三成が再評価され出したのは、ワタクシの記憶では2000年放映のNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」辺りから。
2009年放映のNHK大河ドラマ「天地人」で描かれた石田三成像はなかなかしっくりくるものがありました。
ワタクシ、三成がこういった描かれ方で再評価された事を嬉しく思いました。
が・・・・。
しかし・・・・。
ゲームやアニメでのサブカル的な戦国武将ブームにのっかって石田三成像は一人歩き、いや暴走した、とワタクシは思っています。
近年定説化してきた石田三成像は正義感に溢れ、優秀で清廉潔癖、ちょっと不器用無愛想で皆に誤解されやすく、逆賊徳川家康に立ち向かうも味方に恵まれず負けてしまった悲劇の英雄・・・・。
正直違和感しかありません。
2017年放映の映画「関ヶ原」では上記した人物像に加え男前でカッコいい、女性にも優しい紳士な石田三成・・・・、この人誰?違和感を越えて清々しくさえ感じました。(笑)
石田三成ファンが多い中、こんな書き方をすれば怒られるでしょうが・・・・。
それでも書きたい!
これほどの人物が幼い豊臣秀頼を守る為、豊臣の世の秩序と平和を守る為に立ち上がったら、こんな関ヶ原になる訳が無い!!
石田三成は豊臣政権要職、五奉行の筆頭として権勢を誇りました。
しかし豊臣秀吉没後、福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興、浅野行長、池田輝政、加藤嘉明の七武将に襲撃され徳川家康に命を救われますが責任を問われ五奉行を辞任、豊臣政権中枢から失脚します。
七人全員紹介したのはこの七人全員が豊臣恩顧の武将であり、七人全員が東軍として参戦したからです。
いつの時代、どこの国でも文官と武官の仲は悪いものです。
ですがこれは余りにも嫌われ過ぎです。
少なくともドラマや映画に出てくる様な石田三成ならここまで嫌われるのは不自然です。
ですが石田三成が豊臣の為に立ち上がったのは史実です。
この気持ちは豊臣恩顧の諸将に伝わらなかったのでしょうか?
石田軍で後ろ向きに討ち取られた兵はいなかったという様な話を読んだ事があります。
流石に全員そうでは無かっただろうとは思いますが、石田軍将兵が三成に忠誠を尽くし、最期まで士気旺盛に戦い抜いた事は間違いありません。
嫌われ者の石田三成の別の顔ですね。
清廉潔癖だったのは事実でしょう。
権勢を誇った時代に汚職等の暗いエピソードは出てきません。
賄賂的な話は多くありますが、三成からの要求ではなく諸将が三成にビビって勝手に送り付けたという描かれ方がほとんどです。
関ヶ原の合戦後に佐和山城に攻め込んだ東軍将兵は城内の質素さに驚いたそうです。
領民にとってはきっと敬愛された良き領主だったに違いありません。
この高台の陣地から倒れていく忠臣島左近や兵士達を見るのは、さぞ辛かった事でしょう。
徳川家康最後陣地
徳川家康最後陣地はちょうど井伊直政、松平忠吉の最初の陣地辺りに位置します。
家康は膠着状態を打破する為に総大将自ら激戦区に後詰しました。
昔からこの時期の家康をタヌキに例える事がありましたが、最近はタヌキどころではありません。
上記の様な石田三成像を描いてしまうとタヌキ程度では勝てなくなってしまうからです。
正義感に溢れ、優秀で清廉潔癖、ちょっと不器用無愛想、逆賊徳川家康に立ち向かうも味方に恵まれず負けてしまった悲劇の英雄・・・・。
更に映画「関ヶ原」では上に加えて男前でカッコいい、女性にも優しい紳士な石田三成、これを倒さなければならない家康のキャラ付けは大変です。
とはいえ史実を描く以上、歴史を知る視聴者の許容を越える強力無敵で悪魔の様な極悪人にすることも出来ず・・・・。
映画「関ヶ原」での家康は妖術で豊臣恩顧の諸将を籠絡した様な怪しく不気味な妖怪ジジイ、その家康を演じたのはワタクシも大好きな名優役所広司さん。
不快感すら感じる程の怪演で見事に演じてくれました。(笑)
石田三成を悲劇の英雄に描けば描く程、それを倒す家康の役は癖が強く難しい役になってしまいます。
難しい役になると演技力に優れた俳優しか演じられなくなり、その俳優が見事に演じれば更に家康像が一人歩きする、皮肉な循環ですね。
勿論、こんな家康は嘘っぱちです。
こんな不気味で不快なジジイに豊臣恩顧の諸将が味方する訳が無い。
そもそも関ヶ原の合戦当時の徳川家康は59才・・・・映画もドラマもジジイ姿で描き過ぎです。
制作側はどうしても、正義一直線の若者を経験豊かな老人が策をもって倒した構図で描きたいんでしょうね。
合戦の戦勝祝いで和む徳川本陣に島津追撃戦で負傷した井伊直政と松平忠吉が帰還します。
その姿に家康は大層驚き、自分で調合した薬(薬作りは多趣味な大御所様の趣味の1つ)を、深傷をおった忠臣に、その残りを息子に家康自ら塗ったそうです。
また捕縛された石田三成と対面した際は、
「戦に敗れるのは古今よくある事で恥じることはない」と同情し、
早く首を刎ねろという三成の態度を
「三成は流石に大将の器である」と褒め讃えた、
処刑前に三成らの衣服が破れていると知って
「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である」
と衣服を届けさせたという言い伝えがありますが、史実かどうかはわかっていません。
それらしく聞こえるのはワタクシが家康好きだからでしょうか?
「人の一生は重き荷を背負うて遠き道をいくが如し 不自由を常と思えば不足なし」
どうやらこの有名な句は本人作ではなく、後世の人の偽作らしいです。
しかし、これもそれらしく聞こえるんですよね〜。
悲劇の最期を迎える正義の英雄を好む日本人の判官贔屓、ワタクシも好きですが大概にしておかないと本質を見誤りそうで怖いです。
この徳川家康最終陣地の真横に先月21日にオープンしたばかりの関ヶ原古戦場記念館があります。
コロナ対策で入場制限があり、現在完全予約制となっています。
サイトを見るとむこう一週間満員でした。
ワタクシしっかりと予約を取っておきましたので、後日改めて訪れ皆さんに紹介しますね。
関ヶ原の合戦決戦地
歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」、ここまで関ヶ原の合戦を追いかけてきましたが・・・・大きな違和感を感じます。
西軍の不人気ぶり、纏まりの無さは異常です。
豊臣秀頼と豊臣政権の秩序と平和の守護を旗印に決起したのにどうしてこうなったのでしょう?
戦略的に見て西軍が優勢です。
東北に上杉景勝、近畿に西軍主力と東軍は二面戦争をしなければなりませんでした。
上杉は周りの東軍によって動きが取れずこの戦略はうまく機能しませんでしたが、それは蓋を開けた後わかる事です。
動員した兵力も拮抗していますし、挙兵後の西軍は岐阜まで電撃的に勢力下に押さえ、初動で大きな失敗を犯した訳でもありません。
その上大義名分は西軍側にあってどうしてこんなことになったのでしょう?
西軍は家康が上杉への備えも兼ねて江戸で総指揮を取ると予想していた様です。
家康はこの予想を裏切り自ら西進、関ヶ原で決戦となりました。
しかしこの決戦もメッケル少佐の言うとおり、西軍有利です。
高所を押さえ鶴翼の陣での迎撃、東軍は盆地に入り込んでしまい、更に後方連絡線が西軍別働隊に圧迫されています。
特別頑張らなくても普通に勝てそうなんですが・・・・。
吉川、小早川が内通したタイミングはいつだったのでしょう?
いつなのかはわかりませんが、何をもって東軍勝利と判断して内通したのでしょうか?
その上吉川、小早川も連携して内通した様には見えません。
連携していたのであれば、秀秋があれ程苦悩せずにすんだことでしょう。
そもそも秀吉の血縁の秀秋がなぜ豊臣守護の為に戦う西軍を裏切ったのでしょうか?
理由がわかりません。
西軍は戦う武将も裏切る武将もバラバラで纏りを感じられません。
そして秀頼の為に戦う西軍に豊臣本家は大して支援をしていません。
どうしてこんなことになったのでしょうか?
「その時アヒルが動いた」本日のその時です
ここからはワタクシ、アヒルノヒカリの妄想戯言です。
ワタクシが自分の違和感の辻褄合わせをするだけの駄文です。
関ヶ原の合戦をこんな視点で見てみました。
五大老
徳川家康→東軍
前田利家→すでに他界
毛利輝元→西軍
上杉景勝→西軍
宇喜多秀家→西軍
豊臣秀吉死後、徳川家康は禁止されていた政略結婚を再開し勢力を拡大していきます。
五大老で表立って家康対抗したのは前田利家、しかし利家の死後家督を継いだ利長の代で家康の策略に嵌って衰退、結局関ヶ原の合戦時は東軍で参戦。
前田利長→家康に対抗するも負けて東軍
この五大老に小早川隆景が入る事がありますが、秀秋の義父で関ヶ原の合戦前に他界しています。
五奉行
石田三成(失業中)→西軍
浅野長政→東軍
前田玄以→西軍所属も参戦せず、内通の疑いもあり
増田長盛→西軍で参戦も関ヶ原には参加せず、内通の疑いあり
長束正家→西軍
前田玄以は反家康として行動しますが仮病で大阪に留まった様です、途中下車ですね。
増田長盛も関ヶ原前哨戦では活躍しますが、途中で日和見し保身を図ります、これも途中下車ですね。
豊臣政権中枢の要職に就く大名は殆ど反徳川家康です。
秀吉の死後、単独で実権を握ろうとする家康とそれを阻もうとする他大名の構図です。
結局のところ関ヶ原の合戦は豊臣政権内の豊臣有力家臣達による権力闘争だったのではないでしょうか?
この合戦は豊臣政権内の政争であって豊臣政権守護も豊臣政権打倒もありません。
西軍の大義名分である豊臣秀頼と豊臣政権の秩序と平和の守護は虚言、言い掛かり、ただのお題目だった訳です。
西軍の諸大名達の戦争目的は豊臣秀頼の為ではなく、ずばり現状維持による保身!!
石田三成にしても家康によって五奉行辞職に追い込まれた訳ですから(命を助けてもらったにしても)、その家康が単独で実権を握ったら復職の望みは絶たれます。
ですから三成は己の復権を掛けて挙兵したのです。
西軍決起は正義でも何でも無い、家康の留守中に政権奪取を目的として起こした、よく有る失敗するタイプのクーデターだったのです。
このタイプのクーデターは政争はすでに決着が付いた状態で、負けた側が最後のチャンスとばかりに起こすギャンブル的なものでほぼ失敗します。
日本史なら平治の乱での平清盛に対する源義朝がそれです。
盛り上がっているのはクーデターを起こした人達だけで、周りの人達は冷静で最終的に誰が勝つのかよく知っています。
本当ならば平清盛だの徳川家康だのの主要人物を最初に討ち取らなければならないのに、負け組にはその勇気も力も無いので留守中にこそっと起こす訳です。
成功したクーデターは例えば大化の改新、標的の蘇我入鹿を真っ先に討ち取っていますよね。
討たねばならない政敵が遠くにいる時に行動を起こす・・・・本末転倒も良いところです。
こんな事をしても周りが味方する筈もなく成功する訳が無い。
そして政治の中枢にいない人達にとって政争などはどうでもよく、むしろこの機会に勝つ方に味方して利益を得ようとする訳です。
それが今回の福島、加藤、黒田、細川、浅野、池田、加藤などの所謂豊臣恩顧の諸将だった訳です。
家康がこの時本当に豊臣秀頼打倒を掲げ、西軍の大義名分が本物ならこれらの諸将は東軍にはつかなかった筈です。
これなら秀吉の血縁者、小早川秀秋の寝返りもしっくりきます。
彼が苦悩したのは裏切りという行為に抵抗があったからで、別に豊臣家を裏切った訳では無いのです。
あくまでも豊臣政権内の内紛ですからね。
毛利輝元はクーデターを起こした側の人間、しかも総大将にして貰っちゃたわけですから盛り上がっている事間違いなし、しかし吉川広家は冷静で最後の勝者が誰なのか見えていました。
だから本家毛利の存続を条件に東軍に内通した訳です。
五奉行の途中下車組もだんだん冷静さを取り戻して保身を図った訳ですね。
島津義弘も色々と不戦の理由を挙げていますが、最初から自分達の保身や復権の為に行動したクーデター大名の為に命を賭けて戦おう等とは思っていなかった事でしょう。
西軍主力のクーデター大名達も各自の復権や保身の為に集まっただけですから、纏りが無くて当然です。
ちょうど選挙前にとりあえず群がる野党各党の様なもので、もし間違って西軍が勝ってしまったら豊臣政権はバラバラで何も決められない無残な政府になってしまった事でしょう。
関ヶ原の合戦とは政争に負けた大名達が己の為に群れて起こしたクーデター、掲げた正義が嘘偽りで最後に勝つのは徳川家康だと当時の誰もが知っていた、これです!!
こうして書くと、徳川家康の行動は豊臣秀吉と被ります。
秀吉は清洲会議で信長の孫で幼い三法師を推し、その摂政的立場で権力を握ります。
秀吉にとっての三法師は家康にとっての秀頼、名を譲って実を取ります。
織田家の家臣達のと権力闘争、賤ヶ岳で決着。
家康にとっての関ヶ原です。
小牧長久手の合戦で信長の息子信雄を撃破、名実共に天下人となる。
これが家康にとっての大阪冬夏の陣です。
家康自身が見てきた秀吉の成功例を参考にしたとしてもおかしくはありません。
少なくとも家康は関ヶ原で勝った直後に秀頼を廃する事はありませんでした。
これがワタクシの妄想虚言です。
最近の石田三成贔屓にはどうしても違和感しか湧かないのです。
石田三成が嫌いな訳では無いのです。
ワタクシは再評価前の人間臭い嫌われ者の三成の方が好きでした。
歴史は勝者がつくるもの。
しかし現代の日本では・・・・、
歴史は流行と視聴率がつくるもの・・・・。
戯言が過ぎますかね?
追伸 ここまで付き合ってくださった方、本当にありがとうございました。
長くなってしまってすみませんでした。
好きな自転車に乗って好きな場所を訪れる、好きな事をじっくり調べる、思ったことを書く、ワタクシはとても楽しませて頂きました。
しかし、人に読んで貰う文章を書くと言うのは本当に難しいものですね。
前、中、後の三つで終わらすつもりでしたが・・・・これは酷い。
次回は関ヶ原古戦場記念館の紹介です。
気軽にお付き合い頂けたら幸いでございます。