1560年6月12日・・・・それは桶狭間の合戦 愛知県桶狭間古戦場
皆さん、お疲れ様です。
アヒルノヒカリでございます。
ワタクシ、アヒルノヒカリは・・・・今清洲城にいます。
前回この清洲城をご紹介しつつ、ここが出発地であると書きました。
1560年6月12日・・・・そう、それは桶狭間の合戦!!
謎多き桶狭間の合戦
非常に有名な合戦ですが、どうも詳細はよく分かっていない様なのです。
昔は桶狭間の合戦といえば奇襲でしたが、現在では四つの説が考えられているそうです。
1.奇襲、急襲説
2.正面攻撃、強襲説
3.迂回攻撃説
4.別働隊攻撃説
今回の歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」はここ清洲城から桶狭間古戦場まで信長気取りで一気にロードバイクで駆け抜けながら、合戦の考察を楽しもうという訳なのです。
信長気取りで駆け抜けるに当たって問題なのが進路です。
自動車専用道路を除き、道は人々の生活と密接な関係にあります。
人のいない所に道は出来ませんし人の住む家を大量に壊して道を作るというのも考え難い・・・・桶狭間の合戦当時信長が駆け抜けた道は、今も道として生き残っているのではないでしょうか?
目星を付けた候補は二つ・・・・一つは小田井方面、北から庄内川を渡って名古屋に入り名古屋城周辺を抜けるコースです。
もう一つは枇杷島方面、北西から庄内川を渡って名古屋に入るコースです。
小田井コースには岩倉街道、美濃路、そして名古屋城のルーツである今川方の那古野城がありました。
ですがこの那古野城・・・・信長の父信秀が今川方より奪取、その後は廃城となり荒地になっていたとの事です。
桶狭間の合戦時は廃城でした。
ですから現在の名古屋城周辺は戦国時代当時の尾張織田氏にとっての要所ではなかったと考えます。
さて随分前ですが、名古屋市の西側に位置する津島市をご紹介した事がありました。
現代は内陸部にある町ですが、昔は港町として栄えていました。
そしてこの町を経済、海運の要所として支配していたのが織田氏なのです。
これらの事から戦国時代当時の織田氏の重要地域、尾張の栄えていた地域は今の名古屋市より西側だったのではないでしょうか?
よって今回は北西から名古屋に入る枇杷島コースを選択します。
もう少し細かく道を調べられないかと思いついたのが、神社の位置で道を見つけるという方法でした。
特に式内社なら戦国当時も存在していたはずです・・・・が、これはダメでした。
地図上に周辺神社をずらーっと表示しても、ワタクシ如きでは全く分かりませんでしたね。(笑)
信長は一旦熱田神宮に入り戦勝祈願をして軍団集結を待ったそうですから、市内に入ってからは信号待ちを出来るだけ避けながら道なりに熱田神宮を経由して桶狭間古戦場を目指します。
いざ、桶狭間へ!
勿論、距離と時間を測定します・・・・楽しみですねぇ。
人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻の如くなり
ひとたび生を享け
滅せぬもののあるべきか
出陣じゃぁぁぁぁっ!!
ものども、ワシに続けぇぇぇぇぇっ!!!
誰もいませんがね・・・・。(笑)
未舗装路を疾走する軍馬と舗装路を疾走するロードバイク、どちらが速いのでしょう?
戦国時代の国産馬はサラブレッドのような大型の馬ではなかったそうですね。
戦国時代の歩行者は皆道を譲ったでしょうが、令和時代には最強の障害物である信号機があります。(笑)
軍馬に跨る織田信長と貧脚アヒルノヒカリのロードバイクなら、間違いなく信長の方が速いでしょう。
ですが、織田軍の大半は騎兵ではなく歩兵です。
織田軍とワタクシなら・・・・ワタクシの方が速い筈です。
・・・・などと考えているうちに庄内川を越え、いよいよ名古屋市内に突入!!
ワタクシ交通安全の範囲内で、貧脚なりに頑張って漕いでいます。
本日は夏日・・・・めちゃくちゃ暑いです。
ここからは道なりに・・・・出来うる限り信号待ちを避けながら突貫します。
意識して避けようとすると、なんだかいつもより信号に引っかかった感じがしてしまいます。(笑)
熱田神宮に到着!!
天気が良いので参拝者も多いようです。
信長はここで軍団集結を待って、戦勝祈願をしています。
どれ位の時間、ここにいたのでしょうね?
ワタクシも戦勝祈願ならぬ安全祈願でも・・・・と思ったのですが、どうしても信号待ちの時間が気になって仕方がありません。
とにかく暑いのでコーラをグビッと飲んで一息つきます。
休憩時間は10分以下・・・・急げ、急ぐのじゃぁぁぁぁっ!!
遂に桶狭間古戦場に到着!!
さあ、気になる時間は!?
時間 1時間26分
距離 約26km
・・・・これが速いのか遅いのかは分かりません。
ですがこれを見て即座に思ったのは「近い!」という事です。
清洲城→桶狭間はこれ程までに近いのか!
尾張織田氏はここまで今川義元の圧迫を受けていたのか!
桶狭間古戦場公園
桶狭間古戦場は現在公園になっています。
公園内には桶狭間の合戦を紹介する看板が幾つか立っています。
此方の枯れ木・・・・。
今川義元の馬が繋がれていたという伝承が残っている「社松(ねず)の枯れ木」です。
そして此方が・・・・。
今川義元のお墓です、どうか安らかに・・・・。
公園中央には織田信長と今川義元の銅像があります。
QRコードを読み込むと桶狭間の合戦の様子見る事が出来るそうです。
これはなかなか面白い試みですねぇ。
公園内には水が流れています。
本日はとにかく暑い・・・・この水の景色とせせらぎに癒されます。
・・・・などと思っていた時期がありました。
義元公首洗いの泉・・・・。(苦笑)
今川義元本陣跡(おけはざま山)
桶狭間古戦場公園の間隣りにある小高い住宅地の一角にそれはあります。
本当にどなたかの家の真前です。
こういう残り方は信憑性があるように思えますね。
七ツ塚
此方も公園の北側、住宅地の一角にあります。
この住宅の間の細い道の奥・・・・。
これまた凄い残り方ですね。
信長は義元を討ち取った後、全軍を釜ヶ谷に集結させて勝鬨をあげたそうです。
そして周囲の村民に七つの穴を掘らせ戦死者を埋葬したとの事です。
それがこの地という事です。
なんでもこの塚を壊した者は祟りによって命を落としたというような物騒な事が書かれています・・・・どうか、安らかに。(ガクブル)
桶狭間古戦場伝説地
桶狭間古戦場公園の他にもう一つ、桶狭間古戦場伝説地という場所があります。
古戦場公園より東側、名古屋市を出て隣の豊明市内です。
伝説地ということは、桶狭間古戦場公園の方が正しい位置というこのなのでしょうか?
どちらが本物なのか、という様な論争などがあったりするのでしょうか?
地図上にははっきりと伝説地と出ますが、現地には”伝説地”という文字は一切ありません。
・・・・などとつっこむと豊明市民に怒られるのでしょうか?(笑)
此方がこの古戦場での今川義元のお墓です。
どうぞ、安らかに・・・・。
立派な木ですね。
此方の古戦場は庭園になっています、木々が綺麗で良いですね。
雰囲気的には此方の方が古戦場っぽい・・・・などというと名古屋市民に怒られますかね?(笑)
なんとなく二つの古戦場の板挟みになっている様で困惑してしまいます。
古戦場の正面の彼方の建物はホテルです。
時計台がとてもお洒落で、彼方もとても良い雰囲気ですよ。
大高城跡
最後に桶狭間の合戦と関係の深い大高城跡を目指します。
それにしてもこの桶狭間周辺・・・・。
物凄く起伏の激しい地域です。
如何でしょう、桶狭間の合戦当時は雨が降っていたそうです。
これなら今川軍に気付かれる事なく、かなり接近出来るのではないでしょうか?
はあはあ、結構高いところまで登りましたよ。
そして、住宅地の路地に先に・・・・。
ここが大高城跡です。
これは土塁の跡でしょうか?
二の丸跡・・・・なのかな?
此方の方角に桶狭間古戦場公園があります。
直線距離で約4km、起伏が激しく全く見えません。
上まで登ってみましょう。
頂上は開けたスペースになっています。
お社・・・・移動した跡の様ですね。
奇襲説では今川義元は休止中に襲われたということになっていますが、何故距離4km先のこの城まで来て休憩しなかったのでしょう?
桶狭間の合戦の経過
先ず今川義元の戦略目標ですが上記の大高城それから鳴海城の救援、そして最終的には那古野城の再占領だった様です。
大高城は海運の要所である織田領知多半島と清洲を陸路で結ぶ重要拠点だったそうです。
ここを今川義元が奪取、対する織田信長は大高城の周辺に複数の砦を築き圧力をかけていた様です。
鳴海城周辺も同じ様な状況だったとの事です。
1560年6月10日、今川義元は25000の大軍を率いて沓掛城(現在の豊明市)に入城、翌11日には先鋒の松平元康(徳川家康)が三河勢を率いて大量の兵糧と共に大高城に入城、この頃織田信長は動かず軍議の場でも雑談をしていたという。
6月12日午前3時、松平元康などが大高城周辺の丸根砦と鷲津砦に攻撃を開始、この報告を受けた信長は飛び起きて突然「敦盛」を舞い、午前4時に清洲城から出撃。
信長は午前8時に熱田神宮に到着、軍勢を集結させ戦勝祈願を行う。
午前10時、信長は鳴海城を囲む善照寺砦に入り2000から3000の軍勢を整える。
松平元康率いる三河勢の猛攻により丸根砦は陥落、鷲津砦は織田勢が敗走するも一定の時間稼ぎには成功。
大高城周辺の制圧完了後今川義元は沓掛城を出発、大高城方面に向かって西進。
・・・・そして戦機は熟したっ!!
桶狭間の合戦を考察する
ここから先はど素人のアヒルノヒカリの戯言です。
その後の経過は上記の四つの説でバラバラになっているので省略致します。
一昔前は奇襲説しか無かったものが今は四つもある・・・・ということは奇襲説は否定される事が多いのかもしれません。
ですが・・・・ワタクシは敢えて奇襲説を推したいと思います!
先ずは合戦の不明確さそのもの、古戦場が二つもあるのは異常です。
○年○月○日〇〇で合戦があったという事を令和時代のワタクシ達が知れるのは、当時誰かが詳細を記録しそれが残っているからです。
攻撃を受けて負けた今川方はまだしも、もし計画的な攻撃をしたのならば織田方には詳細な記録が残っている筈ではないでしょうか?
軍議で桶狭間に敵を誘い出しこれを討つ、という様な計画があったという記述もありません。
雑談をしていたのは信長自身が具体的な迎撃方法が思い付かず、それを家臣に悟られない様にする為だったのではないでしょうか。
それから大高方面から開戦の報告を受けた信長の出撃の速さ、異常な速さです。
攻撃を受けた砦からスマホを使って直接信長に電話連絡したとしたも(笑)、準備時間は1時間。
清洲城→桶狭間はロードバイクで1時間26分、これはワタクシ自身が実証しました。
大高城は桶狭間から清洲寄りに4km、攻撃を受けた砦は更に清洲寄りでしょう。
勝手に砦→清洲城を20kmと仮定します。
知らせの騎兵はロードバイクより速く信号待ちのタイムロスも無い、勝手に30分で清洲城に到着したと仮定しても残りたったの30分です。
たったの30分で準備して出撃とは驚異的としか言いようがありません。
それから信長が清洲城を出撃する時点では、今川義元はまだ桶狭間ではなく沓掛城に居たのです。
ワタクシ自身誤解していましたが、信長は義元を討ち取るために桶狭間を目指して出撃した訳では無いのです。
義元を討ち取る計画など、この時点で持っている訳がない。
ここから先はワタクシの更なる妄想的戯言です。
圧倒的に不利な信長は気勢を制し戦いの主導権を握るべく、準備不足のまま出撃を強行。
後に続く将兵は兵糧や武器防具を着ける余裕さえなかったかも知れません。
ですが織田勢は防御側、途中の支城や砦で補給出来るので問題なし。
熱田神宮で集結命令を出した周辺の部隊と合流して戦勝祈願。
この間に丸根、鷲津の両砦が陥落もしくは信長が間に合わないと判断したか、鳴海方面の救援に向かう。
善照寺砦に入ったところで今川義元の本隊が桶狭間にて休止中との報告を受ける。
信長、地図を広げる・・・・あれ?これイケるんじゃない!?(笑)
因みに鳴海は大高や桶狭間と同じく名古屋市緑区、大高より少し北側に位置します・・・・つまり目と鼻の先です
後は時間との戦いです。
今川軍の準備が整う前に・・・・義元が動き出す前にっ!!!!
義元ですが、何故大軍を有機的に活用出来ない桶狭間などに入ったのかと批判される事があります。
写真の通り、この周辺は25000人には狭すぎる地域です。
何故ここに来たのか、それは交通網が発達していない戦国時代当時、25000の大軍が通れる道はここしか無かったのではないでしょうか?
この地で休止した事を油断と評することもありますが、それは結果論でしょう。
今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていた名将です。
初戦の勝利を活かさない愚将でもなければ、時間を空費する愚将でもなかったのです。
義元は大高方面での初戦の勝利に酔いしれて、ぐでぐで休憩していた訳ではないのです。
まだ12日の午前中・・・・義元は勢いそのままに鳴海城を開放し、同日中に那古野城を再占領するつもりだったのでしょう。
だからこそ4km先の安全快適な大高城に入って休憩しようなどとは微塵も思っていなかった。
桶狭間→鳴海も鳴海周辺も同じく起伏の激しい地域です。
ですから25000には狭いこの地域で効率よく進軍し戦う準備をする為に、鳴海から近過ぎず遠過ぎずの桶狭間で一度止まったのです。
確かに攻撃を受ければ大いに不利な地形でしたが、攻撃を受ける心配は”常識”的に考えてありませんでした。
織田軍は目と鼻の先にいました・・・・が、それは鳴海城は囲む砦の守備兵です。
大高方面での敗北の報告を受けているであろう織田の守備兵は「次は自分たちだ」と必死に防備を固めていた事でしょう。
救援が来るまで時間稼ぎをしなければならないこの状況で、守るべき砦を捨てたった数百の兵で25000いる今川本陣に攻撃をかけるなど有り得ないのです。
義元は前日11日に織田の本隊がまだこの地に居ない事を知っていた、或いは予想していたのではないでしょうか?
だからこそ強力ながら重鈍な25000の本隊より、速攻力のある少数精鋭の三河軍を先発させて戦いの火蓋を切ったのです。
大高周辺での戦闘が始まったのが午前3時、それ以前に織田の本隊が動いてはいなかった・・・・ですから”常識”的に考えて義元が桶狭間に到着した時間に目と鼻の先の鳴海周辺に数千の戦力を有し砦の守備とは関係なく自由に動ける部隊、敵将織田信長率いる織田の本隊がいる筈がなかったのです。
敵の準備時間や進軍速度を逆算して攻撃や後退、又は準備や休息の時間をつくるのは兵法として当然のことなのです。
義元は名将としてやって当然の・・・・この逆算をした結果、桶狭間にいたのです。
恐らくこのまま鳴海城を開放して那古野城方面に進撃、25000を有機的に活用できるその地で準備の整った織田軍と決戦・・・・そんな計算していたのではないでしょうか?
ですがこの計算は文字通り致命的に破綻してしまいます。
敵どころか味方ですらも正気を疑う速度で・・・・12日午前4時という”常識”的には考えられない速度で信長は清洲城を出発していたのです。
もしこれを身分が高く気品に溢れ「海道一の弓取り」と呼ばれた名将義元が知ったらさぞ悔しがる事でしょう、「野蛮人め、兵法の”常識”を知らんのかっ!?」と・・・・。(笑)
攻撃を受けた今川義元にとっては間違いなく奇襲だった事でしょう。
2.正面攻撃、強襲説の様にある程度迎撃体制を取ったとしても奇襲であったことに変わりはないと思います。
そして奇襲を受けた義元を責めるのは間違いです。
しっかり計算して綿密な計画するのが兵法であり、それが上手だから名将なのです。
毎度毎度無計画な奇策ばかり使う将がいたとして、勝てば結果的に名将と言われるでしょうが正体は唯の迷将です。
奇策ばかりで勝ち続けられる程甘くないのが世の中です。
では攻撃した織田信長にとってはどうでしょう・・・・信長にとっても全く予想外の攻撃だったのではないでしょうか?
何故ならば、計画性が全く感じられないからです。
先ず前日の軍議で迎撃計画が決定されていない、計画しようがない程の戦況で追い詰められていたのかも知れません。
そして清洲城出発は余りにも早過ぎて、計画を練る時間も何か策略を指示する時間もなかったと思われます。
それから何よりも清洲城を出る時点で義元はまだ桶狭間に居なかった、義元を討つ計画など立てようがありません。
兎に角現場に急行して敵の意表を突き、今川本隊が来る前に先鋒を叩く又は防衛体制を確立する・・・・悪く言えば現地での出たとこ勝負的な考えだったのではないでしょうか?
義元が桶狭間にいる事を知ったのは熱田神宮か、それとも善照寺砦か・・・・地図を広げて今川軍の無防備な状態に気が付いてしまった。
気が付いた信長自身も一瞬「え!?」と困惑したかも知れませんし、攻撃命令を受けた織田軍将兵も「え!?」と思ったかも知れません。
そんなこと出来るの?しちゃって良いの??(笑)
上記のように後は時間との戦いとなります。
今川軍が整って鳴海まで来れば織田軍は守勢にまわる事となり、攻勢のチャンスは二度と訪れないのです。
天気は雨、そして写真の様な起伏を利用して可能な限り発見されずに近づき後は突撃!
3.迂回攻撃説や4.別働隊攻撃説は如何でしょう?
この攻撃が事前に計画準備されていた様子は無く、鳴海→桶狭間の距離も近く今川軍がいつ整うかも判らない、ワタクシはそれらを行うよりもさっさと一丸となって突っ込んだ方が良いように思えます。
無計画で突如始まった乱戦だったからこそ、勝った織田方にも明確な記録が残っていないのではないでしょうか?
「その時アヒルが動いた」本日のその時です
誰もが驚く速さで戦場に到着した信長は戦いの主導権を握り、自身にとってベストのタイミングで攻撃をかける事が出来ました。
孫氏の兵法「兵は拙速を尊ぶ」ですね。
戦史上、この様に準備不足であっても敢えて進軍し機制を制する戦い方をした名将が他にもいます。
例えばローマのユリウス・カエサル・・・・彼はこの戦い方でガリア戦役、そしてローマ内戦を常に劣った戦力を率いて勝利しました。
ですが信長とカエサルには決定的な違いがあります。
カエサルはこの戦法を常用したのに対し、信長は先にも後にも桶狭間の合戦一度きりです。
勇猛なイメージが先行してしまう信長ですが、彼自身はこういった戦い方を好む武将ではなかったのではないでしょうか?
一度もやった事がない戦い方を選び、同じくやった事がない将兵を率いた信長・・・・桶狭間の大勝利がひたすら目立っていますが、相当不安だったのではないでしょうか?
そしてそうしなければならない程、追い詰められていたのではないでしょうか?
ワタクシ達が思うよりも遥かに・・・・滅亡一歩手前まで追い詰められていたのではないでしょうか?
今回考察してみた謎多き桶狭間の合戦とは・・・・死中に活を求めようと無我夢中で戦場に急行してみたら突然千載一遇のチャンスが訪れた。
勝つべくして勝った、計算づくの約束された勝利だったのではなく・・・・単なるラッキーパンチだったのではないでしょうか?
勿論その”ラッキー”は信長の勇気、決断力、そして行動力が手繰り寄せたものですよね。
ずいぶん長い記事になってしまいました。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
もし楽しんで頂けたなら、幸いでございます。