歴史ドキュメンタリー

関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その3

関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その3

 

皆さん、お疲れ様です。

アヒルノヒカリでございます。

歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」関ヶ原の合戦を追いかけるの続きです。

 

井伊直政、松平忠吉陣跡

井伊の赤備えで有名な井伊直政の陣跡です。

JR関ヶ原駅のすぐ近くにありました。

松平忠吉は徳川家康の四男で井伊直政の娘婿です。

天下分け目の大戦、徳川天下取りの命運を賭けたこの戦いに家康最下の主な将はこの四男坊と本多忠勝、井伊直政くらいのみ・・・・。

皆さんご存知の通り、家康の跡取り徳川秀忠と徳川軍主力は中山道を通ってここ関ヶ原に来る筈でしたが、例の名将真田昌幸が籠る上田城でボコボコにされ関ヶ原の合戦に間に合いませんでした。

有力な敵を放置して進軍することは出来ず、率いている兵の規模と練度からして落城させられると誰でも思うことでしょう。

秀忠配下の徳川宿将逹も城攻めを支持した筈ですから、ここだけ見て秀忠ダメ武将というのは酷だと思います。

戦慣れした精鋭徳川の大軍を敵にまわして圧勝してしまった真田昌幸・・・・相手が悪かった・・・・。

家康は勿論この徳川軍を主力として関ヶ原の合戦に臨むつもりだったことでしょう。

合戦終了後到着した秀忠は面会謝絶、この後将軍職を譲り受けるのですが何を決めるにしても駿府の大御所様にお伺いを立てる事になります。

この時の家康の怒りと失望は相当なものだったわけですね・・・・当たり前か・・・・。

因みに将軍秀忠が以後伺いを立てる必要なしと、名誉回復を果たすのは大阪夏の陣の戦後処理を評価されて、です。

 

東首塚

井伊直政陣跡の真隣にあります。

ここにも立派な木が立っていました。

その1で紹介した西首塚に比べて豪華な感じがしますが、東軍が勝者だからでしょうか?

 

細川忠興陣跡

綺麗な新興住宅街の一角にあります。

彼自身も優秀な武将でしたが、奥さんの細川ガラシャも有名ですね。

関ヶ原の合戦時に石田三成に人質にされるのを拒み家臣に自分を斬らせた悲劇はよく知られています。

人質を取ろうとした石田三成を責めることは出来ません。

元々その為に諸将の妻子を大阪に住まわせていたのですから・・・・。

ですが人質で豊臣恩顧の諸将を味方にしようとした三成と、人質を取られたその諸将を説得して味方にした家康の差は大きいと思います。

 

黒田長政陣跡

ここへの道のりは迷いました・・・・。

途中までは「黒田長政陣跡」の案内があるのですが、近くなると黒田長政の名前が消えてしまうからです。

急遽NETで調べたところ・・・・。

岡山烽火場=黒田長政陣跡です。

お越しの際は注意して下さい。

竹林をどんどん登っていくと・・・・、

金刀比羅神社があり、

陣跡は神社の裏側にあります。

山岡烽火場、黒田長政・竹中重門陣跡に到着です。

徳川家康と豊臣恩顧の諸将の調整役であったとされる、黒田長政。

彼の名将ぶりを表すエピソードも多くありますが、なんと言っても父親が・・・・、

皆さんご存知の秀吉の懐刀、知将官兵衛で有名は黒田如水です。

関ヶ原の合戦時、黒田如水は九州で西軍と交戦中でした。

合戦後に長政が「内府(家康)が私の手を取って褒めてくれました。」と父如水に自慢したところ、「その時お前の反対側の手は何をしていたっ!?」と叱られたそうです。

黒田如水はこの時の混乱を利用して九州から攻め上り天下を取ろうと考えていたそうです。

この話を知った時、ワタクシ流石にそれは無いだろうと思いました。

ですが今回色々と調べ直しながらこのエピソードについても考え直しました。

日本史上、国を二分する争いは他にも幾つかありますね。

源平合戦、南北朝時代、幕末・・・・と合戦一つでかたが付いた争いなど一つもありません。

特に関ヶ原の合戦に一番近い争いは応仁の乱・・・・。

11年間争った挙句に結局勝敗が決まらず、その後ぐちゃぐちゃの戦国時代に突入してしまいました。

こうして見ると関ヶ原の合戦はかなりの特殊ケースのようですね。

黒田如水はじめ、当時の多くの人にとって予想外の結果だったのかも知れません。

 

関ヶ原の合戦開戦地

井伊直政、松平忠吉軍が宇喜多秀家軍に対し鉄砲を打ちかけて合戦の火蓋が切って落とされました。

東軍の先鋒は福島正則と決まっておりこの攻撃は抜け駆け、手柄の横取りでした。

偵察だから、偵察だから、と福島陣の横をしれ〜っと通り抜けての出来事だったそうです。

福島正則してやられたり、彼は怒り狂ったそうですね。

笑えるエピソードですが、ワタクシこの出来事をとても重要視しています。

徳川主力はまだ中山道の山中、家康は今まで共に戦ってきた信頼の置ける精兵が一切手元にいない状態でこの大戦に挑まなければなりませんでした。

・・・・こんな状態でよく踏みとどまりましたよね〜。

ワタクシなら主力と合流する為に一旦退きたくなってしまいます。

ですが応仁の乱のような長期化を避ける為にはこの関ヶ原での決戦しかなかったのでしょう。

そもそも西軍を関ヶ原での決戦に誘い出したのは家康だったとの説があります。

しかし自分の兵士がいない・・・・。

当然豊臣恩顧の諸将、縁のない外様大名逹を頼らざるを得ません。

このメンバーならどう考えても福島正則を先鋒に指名するしかないでしょう。

ですがこのまま先鋒に福島正則、主力に外様大名逹で勝ってしまったら戦後処理はどうなってしまうでしょうか?

徳川の天下は遠退くし、悪ければ戦国時代に逆戻りです。

現に九州でそれを期待していた某懐刀がいたわけですし・・・・。

もしこの場で本多忠勝や井伊直政を先鋒に指名しようものなら外様大名逹は「内府は自分逹を信用していない。」と思うことでしょう。

公式の場、諸将の目の前での先鋒福島は絶対に避けられません。

しかし徳川家康は天下分け目の大戦にただ勝つのではなく、正しい形で勝たなければなりませんでした。

井伊直政による一番槍の栄誉の横取りは家康の苦肉の策だったことでしょう。

例え卑怯者と蔑まれても、どうしてもやらなければならなかったわけです。

ワタクシ、ここが東軍内の最大のドラマだと思っています。

次回は西軍諸将を追いかけます。

長くなってしまい、本当にすみません。

 

次回に続く?

 

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