関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その4
皆さん、お疲れ様です。
アヒルノヒカリでございます。
歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」、本日は西軍の諸将を追いかけます。
宇喜多秀家陣跡
案内に沿ってロードバイクで進むと・・・・、
まさかのグラベル登場です!
勿論ロードバイクで突入・・・・あぁ楽しい!!
グラベルロードでこんな山道を走り回ったら楽しいでしょうね〜。
到着です。
宇喜多秀家は豊臣政権の要職、五大老の一人です。
「秀」の字が示す通り秀吉ファミリーの一員ですが、小早川秀秋の様な血縁関係は無かったそうです。
率いた兵力は西軍最大の1万7千。
五大老という立場、戦力、陣を置いた場所、彼が西軍の主戦力ですね。
この宇喜多軍に向かって井伊直政、松平忠吉軍が鉄砲を発砲、続く福島正則軍の突撃で関ヶ原の合戦が開戦となります。
こちらにも立派な木がありますね。
巨木を見るのがとても好きになってきました。
陣跡は神社の境内にありました。
関ヶ原敗戦後、秀家は各地に潜伏しながら島津氏を頼って薩摩まで逃亡、しかし最終的には八丈島に流刑となります。
島の暮らしは貧しく不自由であったらしいですが、この関ヶ原の合戦に参戦した武将の中で一番長生きしたのは彼、宇喜多秀家でした。
どんな思いで余生を過ごされたのでしょうね。
小西行長陣跡
キリシタン大名で有名な小西行長の陣跡です。
生まれは武家ではなく商人の次男だったようですね。
福島正則や加藤清正等と対立していた彼ですが、徳川家康とは良好な関係だったそうです。
細川ガラシャと同じくクリスチャンだった小西行長は自死する事が出来ず、石田三成や安国寺恵瓊と共に京都の六条河原で打ち首となりました。
遺体は教会に引き取られカトリック式で葬られたそうです。
時の教皇クレメンス8世は行長の死を惜しみ、行長の死から7年後にはイタリアのジェノバで行長を主人公にした音楽劇が作られたそうです。
カトリック界で小西行長は有名なのでしょうか?
日本の武将の死に遠いヨーロッパの人々が敬意をもってくれた事はとても嬉しいですが、キリスト教国家では無い日本に住んでいると、本当に申し訳無いのですが正直ピンときませんね・・・・。
島津義弘陣跡
鬼島津、来たぁぁぁぁ!!
猛将、島津義弘の陣跡です。
「島津の退き口」「捨て奸」は歴史好き、戦国武将好きの方なら誰でも興奮するでしょう。
島津義弘は勇猛なだけではなくとても情に熱く、人間味溢れる人物だったようですね。
沢山のエピソードを見つける事が出来ます。
この人にも是非とも会ってみたかったですね〜。
豊臣秀吉も徳川家康も強兵島津を恐れていたと云います。
元々徳川家康の会津征伐に加わる予定だった島津義弘が東に向かう途中で西軍が挙兵、周りを西軍に囲まれてやむなく西軍に加わります。
西軍軍議の場で義弘は夜襲を提案、三成は却下したと言われています。
理由は「天下を決める大戦に夜襲は相応しく無い」から・・・・。
このエピソードは史実かどうかはっきり判っていない出来事ですが、本当なら保元の乱の藤原頼長と源為朝のやり取りを彷彿させます。
もし本当に戦の「い」の字も知らない公家と似た発言を三成がしたのなら、コイツだめだと思われても仕方がありませんね。
その他にも関ヶ原の前哨戦では前線に展開する島津軍を三成が見捨てて撤退してしまう、という出来事があったそうです。
とにかく関ヶ原の合戦当日義弘は不戦を決意、島津軍は動きません。
その島津軍に参戦を要請する三成の使者が義弘に馬上から声をかけ、この無礼によって不戦の決意にさらに拍車がかかったといわれています。
「島津の退き口」ですが、膠着状態打破の為に家康が本陣を島津陣の目前辺りまで移す、その後小早川秀秋の寝返りで大谷、宇喜多両軍敗走、石田軍も壊乱寸前という状態での出来事のようです。
このポツンと残っている島津軍を放置してその後ろの石田軍を攻める、これ本当なのでしょうか?
島津軍に背を向ける形になるので恐ろしくて仕方がありませんが・・・・。
動く気配のない強兵島津軍を見て、とにかく触れないでおこう、そっとしておこう、みたいな空気でも流れていたのでしょうか?
島津義弘が東軍に内通していたという情報はありません。
東西に長細くのびる盆地関ヶ原の出入口は西側に二つ東側に二つ合計四つありますが、南西側は大谷軍敗走で閉じられ、北西側は今まさに石田軍敗走で閉じられようとしています。
島津軍は目前の徳川本陣に肉薄しながら南東の出入口を目指して敵だらけの関ヶ原を横断・・・・、モーセかな?
追撃してくる東軍を「捨て奸」トカゲの尻尾戦術で振り切ります。
この追撃戦で島津豊久戦死、井伊直政、松平忠吉は負傷、直政はこの時の傷が原因で2年後に亡くなります。
関ヶ原の東側
今回時間の関係で残念ながら陣跡は廻れませんでしたが、関ヶ原の合戦を考察する上でこちらも重要です。
東軍の連絡線を脅かす、素晴らしい配置なのですが・・・・戦局になんの影響を及ぼす事なく終わります。
「毛利の両川」の小早川家ともう片方、吉川家。
吉川広家が本家毛利の存続を条件に東軍に内通、合戦当日は一切動かず先陣を理由に後ろの軍の進路妨害をします。
後ろに陣を置く諸将からの再三の攻撃要求に対する広家の答えは・・・・食事中。
笑ってしまいますが、同じ日に東軍では先陣の福島正則を井伊直政が抜け駆けしているわけです。
卑怯な手段かも知れませんが、天下取りに向けて正しく勝たなければならなかった家康、そして家康の忠臣直政はどうしてもやらなければならなかったのです。
何がなんでも勝ちたいなら、食事中等と寝ぼけたことを言っている先陣など押し除けて参戦しればよかった、西軍はこの「どうしても」という気持ちが弱かったように思えてなりません。
文章力不足により長々と書く事になってしまいました・・・・。
次回はいよいよ石田三成陣跡、徳川家康最終陣地、関ヶ原の合戦決戦地の紹介、クライマックスです。
どうぞお付き合いください。
次回に続く?