歴史ドキュメンタリー

1560年6月12日・・・・ 愛知県清洲城

1560年6月12日・・・・ 愛知県清洲城

 

皆さん、お疲れ様です。

アヒルノヒカリでございます。

さて今回は・・・・歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」でございます。

お楽しみ頂けると幸いでございます。

 

清洲城

本日ワタクシ、アヒルノヒカリは清洲城に来ています。

織田信長の居城として有名な清洲城ですが・・・・。

信長がこの城に居たのは約10年間なのでそうです。

早速入城してみましょう!

城門の扉には鉄板が貼られています。

門の裏側です。

大きな木材が魅力的ですね!

城門横には信長塀のレプリカ・・・・本物は熱田神宮にあります。

城内は美しい日本庭園になっています。

池には鯉。

実に綺麗で良い感じです。

天守閣・・・・復元されたのは平成元年、清洲町の町制100年を記念して建てられたとの事です。

信長の居城として名がよく知られた城ですが・・・・創建当時の絵図が残っていないそうです。

それ故に外観や規模は不明なのだそうですよ。

これは意外ですよねぇ。

ともあれ、ここ清洲が当時の尾張の中心地だった事は間違いありません。

今でこそ名古屋がこの辺りの中心地になっていますが、戦国時代当時は海岸線が今よりずっと内側にあり、現在の名古屋市内の多くは湿地帯だったとの事です。

どんな景色だったのでしょうね。

復元された天守閣の内部は資料館になっています。

入場料は大人500円です。

入る気満々だったのですが、資料館博物館あるあるの写真撮影禁止の貼り紙が・・・・あぁ残念です。

ここで皆さんと共有したいが為の入場希望だったので、今回はパスすることに致しました。(泣)

・・・・というのも、ここ清洲城は今回の目的地では無いのです。

さて、戦国時代当時の清洲城は現代復元された場所にあったのでは無いそうです。

此方の川・・・・五条川を挟んだ北側にあったとの事、行ってみましょう。

 

信長公を祀るお社・古城跡碑

観光地あるあるの写真パネル。(笑)

此方が当時の石垣です。

この石垣は五条川の護岸工事の際に発掘されたとの事です。

清洲甲冑工房!!

そして清洲城信長カレー!!(笑)

清洲城古城跡碑は五条川沿いの小高い丘の上にあります。

此方が信長公を祀ったお社です。

天下布武を掲げ戦い続けた織田信長公・・・・今は地元でゆっくりされている事でしょう。

此方が古城跡碑です。

織田信長が「天下布武」の印を使用し始めたのは尾張と美濃の二カ国を略してからだそうです。

そして居城をここ清洲城から美濃城に移しています。

当時の大名は先祖代々の土地の防衛と経営に重きを置いていました。

武田信玄も上杉謙信も上洛を目指したとされる今川義元も、どれだけ領地が広くなっても居城を移してはいないのです。

古い考え方に囚われず惜しげもなく地元から引っ越した織田信長・・・・尾張の中心地であるここ清洲城に10年しか居なかったという事が当時いかに異質な存在だった事でしょうか。

織田信長は他の大名とは明らかに目的意識が違います。

目的意識が違うから行動も違う、だからこそ結果が違う・・・・たった一代で日本統一の道筋を作る事が出来たのでしょう。

 

清洲公園

鉄橋下を潜って隣にある清洲公園に行ってみます。

信長と濃姫の銅像があるとの事です。

公園内には戦没死者の慰霊碑。

どうか、安らかに・・・・。

本日は夏日・・・・暑いですが良い天気です。

ありました、信長と濃姫の銅像。

濃姫。

そして信長、甲冑の作りが凄いです。

彼がいなかったら日本はどうなっていたのでしょうか?

統一が遅れたのは間違いないと思われます。

統一が遅れて近代化が大幅に遅れたイタリアの様になっていたのでしょうか?

それとも他のアジア諸国の様に欧米列強の植民地になっていたのでしょうか?

・・・・資料館に入らなかったのでボリューム不足になってしまいました。(苦笑)

ですが上記の通り、ここ清洲城は今回の歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」の目的地では無いのです。

この清洲城は・・・・出発地なのです!!

タイトルの1560年6月12日とは・・・・そう、それは桶狭間の合戦!!

 

次回に続く?

 

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