歴史ドキュメンタリー

関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その1

関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その1

 

皆さん、お疲れ様です。

アヒルノヒカリでございます。

関ヶ原の合戦は今から420年前の1600年10月21日に起こりました。

今回は岐阜県の関ヶ原古戦場を訪れて当時の合戦を追いかけます。

歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」の時間でございます。

酷いタイトルですみません。

 

いざ、関ヶ原へ

一年程前に関ヶ原をロードバイクで通過した事があります。

高校時代の思い出を追いかけて 福井県若狭湾 その1

あの時は本当に散々な旅になってしまいました。

何となく胸騒ぎを感じつつ、今回も同じ道を通って関ヶ原を目指します。

道順、景色、立ち寄ったコンビニ・・・・、一年前の記憶が蘇ってきて面白いです。

一度しか通った事の無い道ですが、結構覚えているものですね〜。

途中のWC休憩にてシュークリームとハニーラテでエネルギー補給、初めて飲みましたが甘くてうまいんじゃ〜。

そのうち周りが山に囲まれだし・・・・、

関ヶ原に到着です。

一年前にも同じ場所で写真を撮りましたが、随分と昔の出来事の様な気がします。

ワタクシの自転車旅ライフが充実しているからでしょうか?

だったら嬉しい限りです。

 

天下分け目の大戦?

皆さんは関ヶ原の合戦ってどんなイメージをお持ちですか?

正直あまりパッとしない、名前負け、後の大坂の陣の方が盛り上がる・・・・。

合戦の結果を知る21世紀のワタクシ達からすれば徳川家康が小早川秀秋を勧誘、始まる前から勝敗が決まっていた様な印象がありますね。

石田三成が再評価され人気者になった今でも、いやだからこそ徳川家康の謀略と小早川秀秋の裏切りが強くクローズアップされがちですよね。

西軍80000以上 東軍74000〜104000 (諸説あり)

は〜〜〜、疲れた・・・・。

一度こんな地図を作ってみたかったのですが、これは大変ですね。

一生懸命作りましたが・・・・ショボい。(泣)

上の地図が紹介される事が多いですが、実際には徳川本陣の背後にも有力な西軍が陣取っていました。

地図を一つにまとめたかったのですが、どうしても盆地内が小さくなり過ぎてしまうので断念しました。

技術不足です・・・・。

明治時代、陸軍の軍事顧問としてドイツから派遣されていたメッケル少佐は、関ヶ原の合戦図を見て即座に西軍の勝利と言ったそうです。

結果を忘れて見れば、盆地内の東軍を高所に陣を敷いた西軍がまるで袋の鼠のように囲んでいます。

名前ほどパッとしないこの合戦が本当はどんなものだったのか、主だった武将の陣跡を巡りながら関ヶ原の合戦を追いかけてみましょう。

 

桃配山・徳川家康最初陣跡

関ヶ原に東から侵入する場合、道沿いにあるので直ぐに見つかります。

旗が立っている演出が実に良いですね、本当に東軍本陣が上にある様な気がしてきます。

420年前にこの辺りに家康が居て、目印で有名な扇子が置かれていたんですね。

それでは関ヶ原の合戦を追いかけて、いざ突撃!!

 

本多忠勝陣跡

平八郎で有名な猛将本多忠勝の陣跡を目指します。

一方通行みたいな細い道に入り込んだその先の、

狭い民家と民家の間にありました。

これはもうほとんど裏庭ですね・・・・。

三方ヶ原で圧勝した武田軍に「家康に過ぎたるもの二つあり。唐の頭と本多平八」と言わしめた猛将が420年前にここに居たのか・・・・。

徳川四天王中最も勇猛なエピソードの多い本多忠勝ですが、上記のショボい図を見て頂くと分かるように、随分後方に配置されています。

決戦時に投入する予備の精鋭部隊なのは勿論なのですが・・・・。

場所から判断するにイマイチ信用出来ない小早川軍に対する備えも兼ねていた様に見えますが、どうでしょう?

 

島津豊久碑

ここでちょっと主戦場から離れます。

社宅地の様な一帯を横切り、アップダウンを繰り返した先にあるのは、

はためく島津の旗!

「捨て奸」で有名な島津軍の壮絶な撤退劇、その殿をつとめた島津豊久の戦死地です。

階段手前に島津豊久の墓がありました。

高台の上に島津豊久碑。

碑にワンカップがお供えしてありました。

芋焼酎でも持って来ればよかったかな?

めちゃくちゃ島津贔屓なベンチですね〜。

 

西首塚

関ヶ原にはこの西首塚と東首塚があります。

合戦の戦死者を埋葬した場所だそうです。

西は西軍、東は東軍の埋葬地という説があるそうです。

JR東海道本線の敷設の際に埋蔵された大量の白骨が出てきたそうです。

見つけた現場の方はさぞかし驚いた事でしょうね。

 

藤堂高虎・京極高知陣跡

生涯8度も主君を変えた苦労人、名将藤堂高虎の陣跡です。

矢印の方向に30mとありますが・・・・、

ん?

えーと、中学校なんですけど・・・・。

「藤堂高虎・京極高知陣跡 こちらからお入りください」

・・・・まさか中学校の敷地内にあるとは。

主君を度々変えた高虎を徳川家臣の多くは好いていなかったそうですが、家康は関ヶ原の後の大坂夏の陣で功を挙げた高虎を称賛し、「国に大事ある時は、高虎を一番手とせよ」と言ったそうです

職員室から先生が出て来たりしないかと、ちょっと落ち着きませんでしたよ・・・・。

 

福島正則陣跡

愛知県出身の猛将福島正則陣跡です。

賤ヶ岳、文禄の役等々、猛将である事に間違いないと思いますが・・・・福島正則好きにあった事がありません。

どうも負の逸話ばかりが目立ちますよね。

どうしても軽薄粗暴な戦争屋というイメージを持ってしまいます。

春日神社敷地内に陣跡があるので神社に陣を構えていたのでしょう

ものすごく立派な巨木ですね。

樹齢約800年の大杉、合戦当時もこの杉はここに立っていたわけです。

420年前のこの杉の木の下で、一番槍を掠め取られた福島正則が怒り狂っていたんですね。

 

松尾山城跡・小早川秀秋陣跡

それでは本合戦最大のキーパーソン、小早川秀秋陣跡を目指します。

上記のショボい図を見て頂くまでもなく、松尾山の立地は最高です。

西軍、東軍、どちらの軍の柔らかい横腹もブスリといけます。

西軍からも疑惑の目を向けられていた人物がなぜこんな好立地に陣を構えられたのでしょうか?

この松尾山城には元々別の将がいたのを追い出しての入城だったそうです。

どうもこの辺りよく分かりませんね。

ただの歴史好き素人が得られる情報ではしっくり来るイメージが湧きません。

この小早川秀秋陣跡なのですが、ワタクシのスマホのグーグルマップによると松尾山の裏側にまわるようガイドが出ています。

結構な距離をロードバイクで走行しなければなりません。

・・・・こんな場所まで行ったら他の陣跡を巡る時間が無くなるのでは??

しかし関ヶ原の合戦を追いかける以上、小早川陣は絶対に外せません!

ガイドに従ってアップダウンを繰り返しながら・・・・、

ここは・・・・、

どこだ・・・・?

観光地の雰囲気も古戦場の雰囲気もありません。

本当に皆ここまで来るのか?

この細い道を通ってあの山の麓をずーっと走るよう、グーグルマップは言っています。

これは・・・・、破滅の予感がする・・・・。

神社前に駐輪、周りに駐車場も何もありません。

しかし見事な巨木ですね。

きっとこの木も420年前にここに立っていたのでしょう。

ガイドに従って進んだ先は山道・・・・。

進めば進むほどマップ上のマーキングから離れていきます。

山頂に続くであろう坂も階段もありません・・・・。

これ・・・・階段?

まさか・・・・ね。

ハイ、やらかしました!

その後も山中をウロウロ、麓の集落をウロウロしましたが何もありませんでした・・・・。

そしてタイムアップ。

帰りも50km以上走らなければならず、サラリーマンアヒルノヒカリ・・・・翌日仕事です・・・・。

笑えはするんですけどね、頭にあったのはこのブログです。

どうもこのブログ、失敗報告ばかりな気がします。

あ〜ぁ、またダメ記事になってしまう・・・・流石に恥ずかしい・・・・。

ションボリムードで帰路につくアヒルノヒカリでしたとさ。

 

「その時アヒルが動いた」の敗因

関ヶ原での二ヶ所の離れは島津豊久碑と松尾山の裏側です。

まわれた陣跡は計画の三分の一程度、松尾山で時間を使い過ぎました。

敗因はグーグルマップを鵜呑みにし過ぎた事ですね。

マーキングは関ヶ原の反対側の山中でした。

戦場の様子が全く見えない山の向こう側に陣など構えるわけがありません、ばかめばかめ。

帰宅後調べたらやっぱり関ヶ原側から山頂の陣跡まで登れるようになっていました。

そりゃそうでしょう。

山から西軍に向かって1万を越える大軍が攻め降りたんですから、容易に昇り降り出来る場所に陣があったに決まっています。

ちょっと疲れていたのでしょうか?

ですがブログの記事は一発で勝敗を決する合戦ではありません。

アヒルノヒカリの関ヶ原の合戦を追う旅はまだ終わらない!

 

次回に続く?

 

 

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