歴史ドキュメンタリー

関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その2

関ヶ原の合戦を追いかける 岐阜県関ヶ原古戦場 その2

 

皆さん、お疲れ様です。

アヒルノヒカリでございます。

先日無残に敗走した関ヶ原にもう一度挑む、歴史ドキュメンタリー「その時アヒルが動いた」の時間でございます。

本日もここから始めましょう。

休日の予定や天候に恵まれず、18日ぶりの関ヶ原です。

前回は半袖でしたが、今回は長袖で来ました。

ここ最近で一気に気温が下がりましたね。

関ヶ原の合戦は10月の出来事なので10月中に書きあげたかったのですが・・・・、本日は何が何でも廻りたい主要陣跡をコンプリートしてみせます!

 

再び小早川秀秋陣跡

鬼門、小早川秀秋陣跡に進撃です。

しっかり調べたところによると、先日訪れた福島正則陣跡からちょちょちょ・・・・っと南下した辺りにありました。

おいおいおい、グーグルマップさんよぉぉぉぉっ!!(怒)

そうそう、この雰囲気ですよ。

先日の苦労は何だったんだっ!(怒)

松尾山登り口には数台分の駐車場がありますよ。

小早川秀秋、良い印象を持つ人は少ないのでは無いでしょうか・・・・。

ワタクシも根暗で優柔不断という印象を持っていました。

今回この関ヶ原の記事を書くにあたり、でき得る範囲で徹底的に調べ直しました。

彼は特別根暗でも優柔不断でも無く、合戦後の内政で一定の評価があるようです。

この悪印象はどこから来たのか?

思い至ったのが1989年放映のNHK大河ドラマ「春日局」の小早川秀秋でした。

演じた俳優はなんとっ、「半沢直樹」で有名な演技派香川照之さん!!

なるほど、難しい役所を香川さんが好演したから強烈に印象に残っているわけですね。

31年前のドラマですよ、そうTVの影響は恐ろしいのです。

長くなりました、早速登りましょう。

先日迷い込んだ山道とは違い(怒)、しっかり整備されていますし人が歩いた気配もあります。

横を湧き水が流れていて気持ちが良いです。

美しい秋晴れ、今日も良い日になりそうですね。

山頂の小早川秀秋陣跡まで山道を40分程登ります。

昔とはいえ元陸上自衛隊員、一般人よりは早く登れる・・・・はず。

迷わないよう標識があります。

しかし420年前、19才の若者が大きな決断を迫られ迷いながらこの山を登りました。

人生の分かれ道に正解の標識などありはしません。

・・・・コッチの道は行き止まりでは無いようですね。

これは・・・・先日のあの山道に繋がっているのでは??

山之神様!?

良いですね〜、寄り道大好きです。

小早川秀秋も山之神様に祈りを捧げたのでしょうか?

小早川家は「毛利の両川」で有名な毛利の分家です。

しかし秀秋は毛利家の人ではありません、彼は他所の家から養子としてこの家の当主になりました。

「秀」の字が示す通りこの人は秀吉ファミリー、豊臣秀吉の血縁です。

合戦当時の小早川秀秋(19才)は良家の御曹司、貴公子、サラブレッドだったわけですね。

間も無く頂上・・・・う〜ん、登りがキツい!

ロードバイクを60km漕いだ直後の山道は脚にきます。

元陸上自衛隊員が聞いて呆れる・・・・これが現実です。(泣)

ふぅぅぅ〜、到着です。

19才の御曹司苦悩の地、小早川秀秋陣跡です。

確かに彼は直前まで迷い続けました、これは史実です。

彼の生まれからして、自分の出世や家の安泰等に一直線的なしたたかさや泥臭さとは無縁な感じがします。

裏切るという行為に抵抗があったとしても無理はありません。

加えてこの状況、ここからは盆地関ヶ原が一望できます。

西軍80000以上 東軍74000〜104000 (諸説あり)

合計で少なくとも160000の将兵、実際廻ってわかりましたが各軍団と隣の友軍陣跡との距離は約2km、その全てをここから見下ろす事で出来た事でしょう。

この時代の19才は令和現在の19才とは違います。

ですが豊臣天下の平和な19年ですからこれ程の規模の戦は初めてでしょう。

例のショボい地図を見て頂けば分かりますが、

立地は最高、率いる兵も1万を越えます。

自分の決断でこの合戦の勝敗と約160000人の命運が、そしてこの合戦の位置付け的にその後の世の中が大きく変わる・・・・どれ程のプレッシャーだったのでしょうか?

東軍につくと決めた後、家臣の何人かは不服として戦場を勝手に離脱しています。

小早川秀秋に人望が無かったわけでは無いと考えます。

彼は養子です。

小早川家臣団は元からの小早川家臣と秀秋に付き従ってきた(他所から来た)家臣に分かれていたのかも知れません。

中世封建時代の主従とは基本個人と個人の繋がりではなく家と家の繋がりです。

小早川家の中の小早川秀秋は微妙な立場だった事でしょう。

この立ち位置が彼の苦悩に拍車をかけたとしても不思議ではありません。

他人が勝手に始めた戦で「どっちにつくの?」と迫られたら誰でも困るでしょう。

不意に小学校の修学旅行の班決めでどちらの班に入るか迫られ、困って泣いていた女子を思い出しました。(笑)

彼は確かに優柔不断だったのかも知れませんが、それは彼個人の性格では無く置かれた立場によるものだと考えます。

因みに合戦後、小早川家は55万石に加増されます。

しかし秀秋のその後はあまり幸福のものではありませんでした。

裏切りという後ろめたさで人生が狂ってしまったような、そんな気がしてとても気の毒です。

陣跡には休憩所があり、

これが置かれていました。

面白いですね〜、ワタクシも書かせていただきました。

帰りの山道でロードバイクのヘルメットを被った方とすれ違いました。

乗ってるバイクは何だろうと楽しみにしていましたが、

レンタルバイクでした。

レンタルバイクが電動アシスト自転車というのは実に良いアイデアだと思います。

さて、次の目的地は小早川秀秋と真っ向からぶつかった大谷吉継陣跡です。

・・・・脚が重いです・・・・。(泣)

 

大谷吉継陣跡

石田三成の無二の盟友、大谷吉継陣跡です。

鳥居の向こう側に線路と踏切、とても面白い景色ですね。

おおっと、電車だ。

恐ろしく長い貨物列車が通過して行きました。

良いですね〜、この場所がとても気に入りました。

踏切を渡った向こうには、

若宮八幡神社がありました。

ワタクシの大好きな狛犬と・・・・この立派な巨木。

この木もきっと合戦当日もここに立っていた事でしょう。

大谷吉継陣跡はこの神社の裏側にあるようです。

また登りか・・・・。

こうして歩くといかに西軍が有利な場所に陣取っていたか分かります。

陣跡は少し登った山中にありました。

ここに陣を構えた大谷吉継は小早川秀秋の動向を警戒していたそうです。

小早川秀秋の寝返りによって西軍が壊乱したように伝える媒体もありますが、実際にはこの地で大谷軍が小早川軍を撃退しています。

史実では小早川に続き勝馬に乗れとばかりに寝返った、赤座、小川、朽木、脇坂の諸将の攻撃により大谷軍が敗れ、その後西軍壊乱となります。

因みに小早川秀秋は55万石に加増されますが、勝手に西軍を裏切ったこの四将は処罰されています。

ただ勝つだけではなく天下取りに向けて正しく勝利する、徳川家康の毅然とした戦後処理が光るエピソードです。

「人面獣心なり、三年の間に必ず祟りをなさん。」

小早川陣に向かってそう叫び切腹したそうです。

裏切り者に倒された大谷吉継、さぞ無念だった事でしょう。

大谷吉継はハンセン病(諸説あり)を患っていたとされ、首を打たれて恥を晒すまいと家臣に命じて埋めさせたそうですね。

この陣跡奥に大谷吉継の墓があります。

盟友石田三成から挙兵の話を打ち明けられた時、大谷吉継は負けるからと三度も止めるよう説得したと言われています。

また三成の人望の無さを指摘し、毛利輝元を総大将に推すよう助言したのも吉継のようです。

その他にも三成と家康の仲直りさせようとした事や、秀吉死後に家康襲撃計画が挙がった際は家康邸警護をかって出た事、家康を賞賛する声等この武将の人柄を表すエピソードを沢山見つけることが出来ました。

どうやら三成、家康、どちらとも親しかったようですね。

再三の説得にも耳を貸さない三成に遂に吉継は折れ、必敗の戦に盟友と共に挑む決意をします。

懸けるのは自分の命だけではありません。

大谷家の命運、妻子等の家族、そして家臣達とその家族逹・・・・。

ここで関ヶ原の合戦を調べ直して見つけた大谷吉継の石田三成を評した言葉を紹介します。

「無謀であり三成に勝機なし。」

「お主(三成)が激を飛ばしても、普段の横柄ぶりから豊臣安泰を願う者すら内府(家康)の元に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立ててお主は影に徹せよ。」

「(三成は)叡慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者なしであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける。」

・・・・ボロカスですね。

命を捨てる覚悟で付き合った盟友の評価がこれです。

最近のドラマや映画の石田三成像はこの辺りを完全に無視しているように思えますが、いかがでしょう?

 

次回に続く?

 

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