綿神社と平手政秀 名古屋市綿神社、志賀公園
皆さん、お疲れ様です。
アヒルノヒカリでございます。
前回偶然参拝した神社を調べるなかで、興味深い名前の神社が出てきました。
その名は・・・・綿神社。
綿とはコットン?
・・・・コットンの神様が祀られているのでしょうか?(笑)
さあ、行ってみましょう!
綿神社
児子社から西に直線距離で450m離れた場所に位置します。
北側からアクセスしましたので、ここは裏口です。
立派な木と鳥居に綿神社の文字が見えます。
正門は反対側です。
ふと思い至りましたが、神社の正門は全て南側なんですかね?
今まで訪れた神社は皆南側だったような・・・・?
帰宅後調べました。
神社の本殿は基本的に南向き、次に多いのは東向き、西向きは数少なく北向きは殆ど無いという事です。
理由は”天子南面す”という風水の思想から来ているそうです。
天子=天皇で高貴な存在は南を向くという意味だそうです。
風水の思想には”気”すなわち”龍脈”というものがあり、その”気”が噴出するところを”龍穴”と呼びその”龍穴”は北側にあるとされているそうです。
ですから”気”は北から南に流れ、北側が最も高い”気”を得られる場所だという事です。
それ故に神社は本殿を北にして南向きに建設されるそうです。
知ってたよという方、すみません。
ワタクシ、今回初めて知りました。
さて、綿神社に話を戻しましょう。
式内 綿神社 とありますので、この神社は平安時代以前からある神社という事ですね。
創建年 不明(弥生時代説あり)
旧社格・等級等 郷社・六等級・式内社
祭神 玉依比売命・應神天皇・神功皇后
前回参拝した児子社の祭神も應神天皇でしたし、平手政秀の名前も出てきましたね。
玉依比売命は神武天皇の御母、應神天皇は八幡様と書かれています。
神武天皇って初代天皇でしたよね?
社号票と鳥居まで結構距離があります。
こういう神社は初めてですね。
広い・・・・というより細長く奥深いつくりになっています。
物凄く神秘的な感じがしますよ。
何やら道の両脇に見慣れない物があります。
?
??
・・・・。
ワタクシは鳥居の跡ではないかと推測しましたが、どうでしょうか?
綿神社という名前から木綿だのコットンだのを連想しましたが、そうではないそうです。
そもそも昔の日本人の衣服は絹か麻ですからね・・・・。
綿とは海(わた)の仮字なのだそうです。
弥生時代前期に現在の福岡県志賀島の人々が海を渡って本州に散らばり、この地にたどり着いた人々が故郷で祀っていた海神・綿津見(わたつみ)を祀ったのがこの神社という説があるそうです。
この神社の所在地は名古屋市北区元志賀町・・・・志賀の名が付いていますし、近くには志賀本通りという大きな道があります。
この記事を書きながら驚いたのですが、「わたつみ」と打って変換すると「海神」と出てきますよ。
丸みのあるふっくらした、なんとなく可愛く見える狛犬ですね。
そして奥にある子供用トランポリンが凄く気になります。(笑)
コロナが早く収束しますように・・・・。
立派な巨木がたくさんあります、こちらはクスノキ。
そしてムクノキ・・・・紹介がなくても見分けられるようになりたいのですがね〜。
・・・・弥生時代に北九州からここまで人が来るのかという疑問も出ているようです。
ただ昔この辺りは海だったそうで、海や島の名残がある地名が本当に沢山あります。
浜、島、塩の字がつく住所はいくらでもありますし、竜宮町なんて名の町まであります。
そして縄文時代の貝塚も多く見つかっています。
誰が創建したのかははっきりしていなくとも、海神を祀った神社がルーツなのは間違いないのでしょう。
境内には瑞珠稲荷大明神、
隣に四十八祖社があります。
お社が見えますね。
コロナが早く収束しますように・・・・。
ありがとうございました。
綿神社に関する多くの諸説や考察を見つけましたが、知識不足で難しく割愛させていただきます。
諸説や考察を読むのはとても興味深く楽しいのですが、ビシッと理解できる訳ではないので文章に出来ないのです・・・・。(泣)
ワタクシがビシッと理解できるのは織田信長と平井政秀のエピソードです。
児子社でも紹介しましたし、この神社の看板にも記載されていましたね。
この綿神社の付近に平手邸跡地がありますので、そちらも訪れてみましょう。
志賀公園(平手邸跡)
平手邸跡は現在公園になっています。
志賀の名前の付いた公園です。
ちなみに所在地は名古屋市北区平手町・・・・平手です。
隣には名古屋市立大学医学部附属西部医療センター、でっかいヘリポートが見えますね。
のんびりまわってみましょう。
秋の色になりつつありますね。
公園内から医療センターをパシャ、シムシティーに出てきそうな外観ですね。
かっこいいわ〜。
秋の赤色や黄色・・・・紅葉景色を見るのは好きです。
ですが・・・・。
この変わりかけの・・・・、
微妙な色合いもなかなか綺麗ですね。
この景色、ワタクシ好きです。(喜)
こちらが平手邸跡の石碑です。
この武将の名前を初めてみたのは小学生の頃、マンガ人物日本の歴史織田信長だったと思います。
ご存知の方も多いかと思いますが、教育係の平手政秀は粗暴なうつけ信長への責任と諫言の為に切腹します。
もう少し我慢していれば今川義元を討ち取って大化けする主君を見る事が出来たのですが・・・・。
教育係のまさかの切腹に大層悲しんだ信長はキッパリ態度を改めたという説もありば、信長と衝突し対立した結果切腹することになったという説もあります。
史実が如何であれ、鏡と手彫りの狛犬を神社に奉納して信長の奇行が改まるよう願を掛けた訳ですから、職務熱心で主君思いの武将だったことは間違い無いでしょう。
結果論ですが信長はただのバカ殿ではなく、文字通り非凡な人物でした。
時代を考慮する必要がありますが、全て自分のせいだと背負い込んで職務を途中で放り出し切腹してしまうのは生真面目過ぎるような気がします。
常識という既成概念や固定観念に固まった真面目一辺倒では、「海道一の弓取り」今川義元をあの様な形で討ち取る主君の器を見抜くことは出来なかったでしょう。
奇抜な信長には真面目な側近のサポートが必要ですが、教育係としては相性が悪かった様に思えます・・・・お気の毒に。
あまり頑固に頑張り過ぎず、肩の力を抜いて広い視野が持てる様に生きていきたいものですね。
志賀公園には綺麗な池があります。
もう少し紅葉がすすむと綺麗に池に映るでしょう。
さて、偶然参拝した八幡社から児子社、綿神社、平手邸跡の志賀公園と辿って来ました。
綿神社は式内社、つまり間違いなく戦国時代にはあの場所に存在していた訳です。
看板にも記載されていましたし、ここ志賀公園から綿神社は直線距離で700m東です。
平手政秀が鏡と手彫りの狛犬を奉納したのは綿神社なのでしょう。
が、海神に不良が更生するように祈願・・・・。
特別おかしくはありませんが・・・・子供の守り神の児子社、児宮は綿神社の東450mの距離にあります。
つまり平手邸から児子社までたったの1150mです。
不良更生の願掛けならば、そちらに行くのが自然です。
児子社の記事で紹介した児子社=綿神社説ですが・・・・。
超ど素人のワタクシが状況証拠のみで考察するに、戦国時代当時児子社は綿神社の境内にあったのではないでしょうか?
祭神も同じ應神天皇です。
先程見た瑞珠稲荷大明神や四十八祖社のように綿神社内あったのではないでしょうか?
平手政秀は綿神社に願をかけたのではなく境内にあった児子社に願を掛けた。
そして戦国時代以降、何かの理由で分社して今の場所に移ったのでは?
尾張徳川家に優遇されていた式内社内にあった子供の守り神、きっとこの辺りの子を持つ親達に親しまれ愛されていたのでしょう。
たかが450mですから移転後も多くの子連れ参拝客が訪れた、そう戦前までは・・・・。
不敬覚悟で書きますが児子神社の多数ある「あぶないのるな」を見た時、不気味にすら感じました。
子供が頻繁に来るほどの人気神社には見えない・・・・。
近くの道が稚児宮通りと名付けられていると知って疑問を感じました。
そんなに華がある人気神社には見えない・・・・。
こう考えるとしっくりきます。
最後にかっこいい医療センターの反対側、公園東側を見に行っておひらきにしましょう。
公園東側は最初は公園の敷地に指定されていましたが、今は住宅地になっていて道路形状が独特なのだそうです。
うわぁぁぁ〜。
ハハハ。
見事にクネクネですね〜。
ミニ四駆のコースみたいです。
ありがとうございました。
皆さんの町にはどんな神社がありますか?